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門田博光の凄さが分かる名言・語録集!天才ホームラン王の伝説エピソードから努力論まで


日本プロ野球においての通算最多本塁打は、言うまでもなく通算868本の世界記録をつくった王貞治です。2位は通算657本を放った野村克也。3位はその野村に「南海の三悪人」と黒澤明監督の名作映画をもじった称号を与えられたひとり、通算567本の門田博光です。

プロ入り直後は長打もある巧打者として活躍しましたが、当時は選手生命を危ぶまれるケガだったアキレス腱断裂を乗り越えると、長距離砲としてチームの核となり、40歳にして二冠王とMVPに輝いたことから、中年の星や不惑の大砲などとも呼ばれた門田。

身長は170センチメートルという体格で、40歳にして44本塁打というのは驚異的です。王貞治でも40歳の時には30本であり、タフィ・ローズが31本、山崎武司が39本というのを考えると、なかなか記録更新は考えにくく、アンタッチャブルレコードのひとつかもしれません。

今回は不惑の大砲、門田博光の凄さが分かる名言や語録を紐解き、天才ホームラン王の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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門田博光について

まずは門田博光の経歴を追ってみます。

1948年2月26日生まれ、山口県小野田市(現山陽小野田市)出身。一家で奈良県に移り住み、天理高校に入学。甲子園にも出場しました。卒業後はクラレ岡山に入社。都市対抗で活躍し、1968年のドラフトで阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)に12位の指名を受けますが入団を拒否。翌69年に南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)からドラフト2位指名を受け入団します。

1年目から走攻守のそろった巧打者として活躍を始め、2年目にはレギュラーを獲得。3割31本塁打を記録し、打点王も獲得します。それから3割を越える高打率と長打力を武器に、ホークスの主力となりますが、身長170センチというプロ野球選手としては小柄な体格もあり、野村克也監督からは大砲ではなく、アベレージヒッターとなるようアドバイスされますが、本人は本塁打にこだわりをもっていました。

歴代ホームラン記録ランキング!最多本塁打や世界記録は何本?【プロ野球】

 

1979年のキャンプで、当時は再起が難しいとされたアキレス腱を断裂したことで、走塁と守備力を奪われた門田は、DHの大砲として復活します。1980年以降4度も40本塁打以上を記録し、本塁打王を3度獲得。1988年に南海がダイエーに買収され、フランチャイズが福岡に決まったことで、関西にあるオリックスに移籍しますが、古巣への愛着もあり、1991年にホークスへ復帰。1992年に引退します。

 

現役通算23年間で、2566安打、567本塁打、MVP1回、打率.289。本塁打王3回、打点王2回、ベストナイン7回、カムバック賞、プロ野球史上2位タイの月間16本塁打、パリーグタイ記録となるシーズン満塁本塁打4本と2試合連続サヨナラ本塁打など、数々の記録を打ち立てました。

引退後には解説者として活躍しています。

 

私が選ぶ、門田博光の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「どこの球場でも場外まで運んでやろう、それがロマンだと思って野球やってきた」

170センチメートルの身長はプロ野球選手としてかなり小柄です。監督だった野村がアベレージヒッターとして育てようとしたのも無理はありません。しかし名将の言葉を受け流し、結果として史上3位となる567本もの本塁打を放ったのは驚異的だと言えます。

野村は江夏豊、江本孟紀と並んで、門田を「三悪人」のひとりと呼んでいますが、王貞治に頼んでまで、あくまでもヒットの延長がホームランだと言い含めようとしましたが、門田は大打者二人の意見にも動じず、我が道を行きました。そしてその二人に次ぐ本塁打数を記録したのです。

その野村は門田について「何かをいえばそれと反対のことをする」とぼやきつつ、「最後の野球バカ」と評し、「ものすごい頑張り屋」だと語っています。

 

「567本のホームランを打つため、自分の人間性どれだけ変わったか。馬鹿にされて、自分を見失い、楽しい人生も犠牲にしてきた。170しかない人間がそこまでやろうと思ったら、とんでもなく頑固にならんとおっつかないってことですよ」

スポーツの世界で体格差は大きなハンデです。

しかしどんなスポーツでも必ずそこに風穴を開ける選手が登場するものです。彼らに共通するのは、どれだけ馬鹿にされても、頑固にこだわり続ける強い決意と不断の努力だろうと思います。

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【名言語録その2】

「祈ったよ。1番、打つな。2番、3番、打つなって」

野茂英雄との初対戦を楽しみにして、自分が最初に打ってやろうと、そう祈っていたのそうです。結果は真っ直ぐ狙いでホームランを打ちましたが、決め球のフォークを一切投げてこなかったことに、むしろ脅威を感じたと話しています。ちなみに門田の引退試合の相手は野茂であり、この時も真っ直ぐをすべて空振りし、三球三振でした。

このむき出しの闘争心は門田の性格というよりも、体の小ささによるコンプレックスと、当時は復帰不能といわれていたアキレス腱の断裂からの復活ということが大きかったのではないでしょうか。

スポーツ医学が今ほど発展していなかったこともあり、投手は肩や肘にメスを入れれば終わり、野手はアキレス腱を切れば復帰不能というのが常識でした。同じ頃に谷沢健一がアキレス腱痛から復活したケースはありますが、門田と同様にアキレス腱を断裂した前田智徳は、やはり以前のような打撃の感覚は戻らなかったと語っています。

前田智徳の凄さが分かる名言!天才バッターの伝説エピソードから人生哲学まで!

 

「ホームランを打てば足に負担はかからない。これからは全打席ホームランを狙う」

そうやってアキレス腱を断裂後に本塁打数を増やし、3度も本塁打王に輝いたことは、後にケガをした選手の支えとなり、選手生命を伸ばすことに大きな貢献をしたと思います。

 

「自分の足で地面を踏みしめて立つ喜びが分かりますか」

ケガや病で苦しんだ人たちの代弁ともいえるその言葉と、若き才能との対戦に心を躍らせる言葉と、双方を語れる門田はある意味で幸せなのかもしれません

 

【名言語録その3】

「その時代のとてつもない数字に自分からトライをしていかないと、歴史というのはできないと思う」

門田は高校時代までホームランを打ったことがなかったそうです。それが歴代3位の本塁打記録を残したのだから、人生というのはわからないものです。

落合博満の回想によれば、門田はフリーバッティングの際に、本来なら18.11メートルの距離があるマウンドからではなく、およそ12メートルくらいのところからバッティングピッチャーに投げさせ、それをフルスイングしていたそうです。更にティーバッティングでは鉛入りのボールを打っていたのだとか。

また東尾修に何度も死球をくらい、あえてピッチャー返しを打ち返して太ももに打球を直撃させたとか、野村が3000試合出場を果たした記念の試合で、「恩返し」とばかりに2打席連続ホームランを放ち、キャッチャーマスクごしに野村が「もうエエやろ」とぼやいたので、次は二塁打にしておいたとか、数々の武勇伝を残しています。

当時のパリーグには東尾の他にも、山田久志や村田兆治、鈴木啓示、野茂英雄など、歴史に残る投手たちがたくさんいました。そんなレジェンドに立ち向かって打ち崩さなければ、自らの歴史は作れません。それがプロの世界です。

自分に限界を作らず、トライすることが、次の歴史につながるのです。

 


不惑の挑戦―南海ホークス最後のモンスター

 

 

名言からの学び

・もって生まれたものを、言い訳にしてはならない。

・苦しみも喜びも呑み込んでしまうのが一流である。

・自分に自分で限界を作らない。

 

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